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エディ・ローソン物語 ステディと呼ばれた男の真実

世界グランプリの最高峰クラスでチャンピオンに輝くこと4度。その堅実な走りから、いつしか「ステディ・エディ」と呼ばれるようになった、あるアメリカンライダーの足跡を振り返ってみましょう。果たしてそのニックネームは正しいものだったのでしょうか?

10シーズンで4度のタイトル

世界グランプリの最高峰クラスGP500(現MotoGPクラス)で4度ものタイトルを獲得したエディ・ローソン。フル参戦を開始した1983年から’92年に引退するまでの10シーズンの間に達成したその戦績は、群雄割拠の80年代にあって突出したものであり、その功績が称えられて’05年にはグランプリ史上17人目の殿堂入りを果たしている。

しかしながら、それは正当な評価だろうか?

問題は17人目という数字だ。つまり、ローソンがレジェンドの仲間入りを果たす前に16人の先人がいたということになるのだが、その中にはケニー・ロバーツ、フレディ・スペンサー、ケビン・シュワンツ、ウェイン・レイニー、ワイン・ガードナーという面々がいる。そう、ローソンは常に彼らと真っ向勝負を繰り返し、先に引退したロバーツを除く全員を退けてきたにもかかわらず、最も遅れて評価されたことを示しているのだ。

そんなローソンがいかなるパーソナリティの持ち主か。それは多くのレース関係者やジャーナリスト、あるいはファンにとっても極めて難しい質問に違いない。

 

ローソンのことを「無口」と評する人がいる。

例えば’86年、AMAの開幕戦となったデイトナ200マイルレースでのことだ。当初参戦を表明していたスペンサーがサーキットに現れないことに対してコメントを求められると、ローソンは「Who?(それ誰?)」とひと言で済ませたことは広く知られている。飾り気も遠慮もないその態度は無口と言えば無口。しかしながら、その辛辣さがなによりも雄弁に感情の波を表している。

また、ローソンのことを「堅実」と評する人がいる。

例えば’82年、やはりデイトナのレースにカワサキZ1000Jで参戦した時には無給油で走り切るという大胆な作戦を決行。結果的にラストラップにガス欠を起こして後退したものの、強気な攻めの姿勢は堅実とは裏腹の一か八かの大博打。そして、その後のグランプリシーンにおいてもそうしたチャレンジを幾度となく演じているのだ。

にもかかわらず、多くの人々は彼のことを「ステディ・エディ」と呼ぶ。決して無理をせず、型にはまったような手堅い走りを見せるローソン。しかしそれは我々の幻想に過ぎないのではないだろうか。ローソンが積み重ねた勝利とチャンピオンの数を紐解いていけば、そこにはただひたすら速さを求めた狂気の姿が浮かんでくるのだ。

ライムグリーンを背負ったAMA時代

エディ・レイ・ローソンは’58年に父レイと母パトリシアの間に生まれ、妹のシェリーとともにカリフォルニア州の山あいの街アップランドで育った。ライダーでもあり、化学者でもあった父のDNAはふたりに振り分けられ、ローソンは12歳の頃からヤマハDT80でレースのキャリアをスタート。勤勉だったシェリーは後に教師の道へ進んでいる。

理論を重んじる父親の才がローソンにどれほどの影響を与えたのかは定かではないものの、ほどなくモトクロスよりもダートトラックとロードレースに没頭するようになった。なぜなら、フィジカルありきのモトクロスよりも緻密な作戦と正確な操作が要求されるそれらのレースの方が魅力的に映ったからだ。

 

15歳で本格的にロードレースの世界へ入ったローソンは、カワサキKH400を操って頭角を表し始め、メーカー関係者の間でも徐々に注目される存在になっていった。

中でも、その豪快なライディングフォームに才能を見出していたカワサキは、’80年にスーパーバイククラスのライダーとして迎え入れる契約をオファー。ローソンはこれを受け、22歳の時にAMAのメジャーライダーの仲間入りを果たしたのである。実はこの契約を巡っては、後の世界グランプリ時代まで続くスペンサーとの因縁がすでに始まっていた。

というのも、カワサキはローソンに声を掛ける前に当時19歳とさらに若かったスペンサーの獲得に動き、これに失敗。言わばローソンは2番目の選択肢だったのだ。

そのこともあってか、カワサキも過度なプレッシャーは掛けず、次世代のライダーとして経験を積ませようと考えていたものの、シーズン開幕直前にエースライダーのマイク・ボールドウィンがケガで離脱するという事態が発生。ローソンは思わぬ形でその代役を務めることになったのだ。

思わぬことはまだ続き、ローソンは初戦で優勝するという鮮烈なデビューを飾るとその勢いを維持し、ホンダのスペンサーやヨシムラスズキのウェス・クーリーを相手に3勝を挙げて最終戦終了時点でランキングトップに位置。つまりチャンピオンを意味していたが、極めて不可解な理由で最終戦のポイントが剥奪され、その座には代わってクーリーが就いたのである。

 

翌’81年は雪辱を晴らすシーズンになった。名実ともにエースライダーとしての役割を果たし、安定したリザルトでスペンサーの追撃を振り切ると、4勝を挙げてAMAスーパーバイククラス初のタイトルを獲得。250ccクラスでも6勝を記録し、ダブルチャンピオンに輝いたのだった。

皮肉にも速さが際立ってたがゆえに、淡々と勝利を積み重ねていくように見えたそのスタイルを「ステディ・エディ」と人々は評した。そのキャラクターを良くも悪くも決定づけたそのニックネームは23歳という若さで与えられ、引退するまでくつがえることはなかったのである。

 

ローソンの後塵を拝したスペンサーはAMAに固執することなく、’82年から世界グランプリに参戦を開始。ライバルを失ったローソンはディフェンディングチャンピオンとして序盤に優勝を重ね、タイトルの防衛に成功した。この時、チームメイトに加わったのが後に世界でも戦うことになるウェイン・レイニーだったが、当時はまだ発展途上の若手のひとりであった。

ところで、’82年のローソンは決してステディなどではなかった。冒頭のデイトナ無給油作戦もさることながら、ラグナ・セカではカワサキのトランスポーターがレースマシンもろとも焼失したため、急遽KR500で出走。絶望的にポテンシャルの劣るマシンで、世界グランプリの合間に参戦してきたスペンサーに執拗に食い下がって転倒し、脊椎を骨折するなど、むしろ向こう見ずなアグレッシブさが際立っていた。

シーズンの後半は体の自由が効かないまま暴れるグリーンモンスターを手なずけ、ポイントリーダーの座を最後まで死守。その様は決して手堅い、堅実な走りなどではなかったのである。

グランプリに舞台を移したスペンサーとの戦い

‘83年になると、ローソンを取り巻く環境は一変する。ヤマハワークスからGP500クラス参戦のオファーが舞い込み、これを快諾。レースにしか興味を持てないローソンにとって、最も速く最も優れたマシンで戦えるのだから願ってもない話だったに違いない。

一方でヤマハの考えはもう少し策略的だった。ローソンを指名したのはコンストラクターズタイトルとケニー・ロバーツのチャンピオン獲得をサポートさせるため。もっと具体的に言うなら、レースではロバーツの後方に位置し、スペンサーを筆頭とするライバル勢の防波堤になることが求められたのだ。

マシンはもちろん、ほとんどのコースも初めてという環境を考えるといささか荷が重いと言わざるを得ないが、ローソン抜擢の理由にはライディングフォームがロバーツとよく似ていたことが挙げられた。つまり、引退が迫りつつあったキングのスキルを最も近い位置で効率よく吸収し、それを継承することも期待されたのである。

 

ただし、こうした見解についてローソン自身は同意していない。ロバーツからはライディングに関する指導を受けたことも影響されたこともないと否定。むしろそのスタイルはスペンサーに似ており、彼よりも少しアクセルワークが丁寧なだけだと自己分析している。このことからもローソンがいかにスペンサーの存在を意識していたのかが分かる。

グランプリフル参戦1年目となったこの年はスペンサーに完敗を喫し、ロバーツのサポート役というヤマハの思惑にも十分応えることはできなかったものの、ランキング4位でシーズンを終えたという事実は、及第点以上の評価が与えられて然るべきだろう。

 

マシンに慣れ、コースの学習も済ませた‘84年になると、ローソンは完璧に仕事を遂行した。速さはあるものの、脆くもあった独創的なホンダのV4マシンに翻弄されるスペンサーは5勝を挙げながらも終盤はケガによって欠場。ローソンは4勝に留まるも全ライダー中、唯一全戦でポイントを獲得し、初の世界チャンピオンに輝いて見せたのだった。

チャンピオンを決めたスウェーデンの地は、前年にロバーツとスペンサーの戦いの天王山にもなったグランプリだ。ローソンは2大メーカーの因縁が渦巻くその地でロン・ハスラム、ランディ・マモラ、レイモン・ロッシュといったホンダ勢に囲まれながらもラストラップでトップに立つというメンタルの強さを発揮。ロバーツの雪辱を願っていたヤマハのスタッフは、その溜飲を下げることになった。

プレッシャーから解放されたローソンは、それ以降はしばらく冗舌に振る舞い、特に当時のチーム監督ジャコモ・アゴスチーニ(殿堂入り第一号を果たしたイタリアの英雄)についてコメントを求められると、契約金の未払いに関するトラブルを平然と口にするなど、辛辣な皮肉屋としてのキャラクターも確立していった。

02-1988

4強と呼ばれた時代に

若く、はかなげで、天才的なきらめきを見せるスペンサーに対して、ローソンは無表情で多くの場面で無口。そして走りは堅実。スペンサーも決してフレンドリーではなかったが、ジャーナリストもファンも明らかにこのふたりを陰と陽として扱った。無論、ローソンが陰である。

それゆえ、スペンサーが速さでローソンをねじ伏せるとスプリンターとしての天賦の才を称え、ケガやマシントラブルに悩まされるとその姿に同情した。

つまり、ローソンが世界王者の座に就けたのはスペンサーがケガをしていたり、マシンの調子が悪かったからに過ぎない。そんな論調が多勢を占めていたのだ。

 

しかし、精神的にも肉体的にも不安定なスペンサーを置き去りにするように、時代は急速に変わりつつあった。いわゆる4強時代の幕開けがそれだ。’86年、スペンサー不在のグランプリで2度目の頂点に立ったローソンは、シーズン前にデイトナ200マイルに参戦。FZ750にデビューウィンをもたらしたのだが、この時ローソンの後方でゴールしたのがホンダVF750に乗ったウェイン・レイニーとスズキGSX-Rのケビン・シュワンツであり、その同じ日に開催されていた全日本ロードレースのTT-F1クラスにおいて優勝を飾っていたのがワイン・ガードナーだった。

そんな風にして、それぞれのステージでキャリアを積んだ4人がほどなくGP500の最前線で激烈なトップ争いを開始。ローソンが引退を決意する’92年までが、4強と呼ばれた時代であり、グランプリ史上における黄金期のひとつに数えられている。

 

いくつかのミスとマシントラブルによって、’87年のチャンピオンの座をガードナーに奪われたローソンは、以前にも増してレースに貪欲に取り組んでいく。

‘88年には、タイトル防衛に執念を見せるガードナーと波に乗ると手がつけられない速さを発揮するシュワンツ、そしてすでに老獪さを身につけていたレイニーらをことごとく退けて3度目のタイトルを手にするとそれに飽き足らず、翌89年のシーズン直前にホンダへの移籍を発表するという大胆な行動に出たのだ。

そのシーズン中、ローソンはハンドリングに問題を抱えるNSR500に対して遠慮なく注文をつけ、ホンダがシーズン中に作ったフレームは15種類を及んだという。その誠意にローソンも最大限の結果で応え、見事4度目の、そして自身初の連覇に成功。異なるメーカーでの連続チャンピオンは、後にバレンティーノ・ロッシが達成するまで誰も成し得なかった偉業のひとつである。

04-1989-2

写真引用元:本田技研工業

勝てる体制を模索し続けるローソンは、翌’90年に再びヤマハに戻るという目まぐるしさを見せるも、このシーズンは序盤のケガが響いてタイトル争いからは脱落。その代わり、鈴鹿8耐にモチベーションを見出すとペアを組んだ平忠彦に悲願の優勝をプレゼントし、優勝請負人としての存在感を見せつけたのだ。

ローソンが次にどこへ行き、どんな結果をもたらすのか?

この頃になるとそれは恰好のネタになっていたが、’91年に今度はイタリアのカジバに移籍。引退間近の話題作り、もしくは金稼ぎと揶揄する声をよそに、地元イタリアGPでは一時トップを走るなど、きらめきを放ち続け、契約を更新した’92年のハンガリーGPではついにカジバへ初優勝をもたらしたのだった。

レース序盤、雨に濡れたハンガロリンク・サーキットをインターミディエイトとカットスリックで耐え抜き、終盤に路面が乾いてくるや猛然とダッシュしてトップをもぎ取るという戦略とその遂行は、若かりし頃となんら変わることのない勝負師の姿そのものだった。

ステディ・エディの真骨頂

それでももし、ステディという言葉がふさわしいとするなら、ロードレース最後の優勝になった’93年のデイトナ200マイルがそれに当たるだろう。

前年にグランプリから引退したローソンは、バンス&ハインズ・ヤマハからデイトナにスポット参戦することを表明。決勝ではカワサキのエース、スコット・ラッセルの勢いが勝っているかのように見えたが、ローソンはその背中を見つめながら勝つための策略を張り巡らしていた。

カギとなったのはピットインの回数だ。この200マイルレースではタイヤ交換と給油のため、2回のピット作業を行うのが通常パターンとされていた。

ところがローソンが乗るYZF750Rはタイヤの摩耗が早く、3回のピットストップを想定。何事もなければ勝算はなかったのである。

そこでローソンはラッセルとの距離を巧みにコントロールし、あらゆる場面で背後から揺さぶりを掛けて翻弄。そのプレッシャーに耐えられずペースを乱し始めたラッセルはタイヤをみるみる消耗させ、たまらずピットに飛び込んで予定外だったタイヤ交換を要求。結果的にローソンと同じ条件に引きずり込まれたのである。

05-1993

写真引用元:ヤマハ発動機

こうしてローソンは最初から最後までレースを支配し続け、ラストラップにトップに立つという鮮やかな逆転劇を披露。’86年以来2度目のデイトナ制覇を成し遂げることになったのである。

デイトナ・スピードウェイはコースの大半が見渡せるサーキットだ。そこに集う大観衆のすべてに向けて、最後の最後でさらけ出したこの巧みさこそが「ステディ・エディ」の集大成と言えるのではないだろうか。

(※本稿は『ライディングスポーツ』No.316(発行/三栄書房)に寄稿した内容を加筆・修正したものです。)

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